日記

【日記】楽しい(たのしい)ことと楽しい(らくしい)ことはあまりにも違う(Day32)

生き方改革日記は10日ごとくらいの更新にしようかと思っていたが
今日はどうしても書く必要があるので書く。

昨日、Twitterの知り合いのQBさんに
文章添削をしてもらった。

文章を書いた後に、客観的にフィードバックをもらう機会が欲しいと思って先週から始めた会に、ゲスト参戦してもらった。

そして、ズバズバと悪いところが指摘される。
ちょっと辛かった。

でも、そこで気づいてしまった。

いままで、自分はあまりにもできることしかやってこなかった。
やりたいようにやって、やりたいようにできすぎていた。
周りには結構もてはやされてきた。

それは自分が発する言葉や雰囲気からでもあるし
嫌いなものを嫌いと跳ね除けてきたからでもある。

人の話は全然聞かない。謙虚さとはかけ離れた存在。

 

自分はもしかしたら打たれ弱いかもしれない
となんとなく思っていたし

失敗や苦労を今までしていないのは結構危ないな
ともほんのり思っていた。

その思いが今、かなりクリアになってきた。

「たのしい」と「らくしい」は全然違う

楽しいことで生きる
好きなことで生きる
得意なことで生きる

いろんなところで言われるこんな台詞。
5月くらいから少しずつ違和感を感じ出してはいた。

楽しい、とか、好き、とか、得意
だけをやっていると「できることしかやらなくなる」恐れがある。

らく、なことで生きていく、になってしまう。

こうなると成長がとまる。

本当に好きと思えること
本当に楽しいと思えること

というのは
全部が全部らくなわけではなく
途中ちょっとつらいこともあるけど辛抱できる。

そういうことなんじゃないだろうか。

ちょっと苦しいところもあるけど、それを乗り越えた達成感こそを
楽しいと感じ、その苦しさも含めて好きといえる。

娯楽やエンタメなら単に楽しいでもいいかもしれない。

でも世の中に価値を生み出していくのが、生きる、ということなのであれば
価値を生み出していくためには、らく、なことだけしていてはいけない。

好きなこと、楽しいと思えることに+αをして
相手への価値になるようにする。

価値を提供し「ありがとう」と言ってもらう。
ちょっと背伸びした自分だからこそ提供できる価値を与える。
そうして、幸福感を得る。

生きる、とはそういうことなのかもしれない。
そういう人生こそが生きがいのある人生なのかもしれない。

量は質に転化するとは限らない

量か質か。

これに関して自分の答えは、まず「量」。
これは間違いない。

量なくして質を高められるのは天才だけだ。
やってみることで課題が見えてくる。

すぐ「効率が〜」とか言うやつは好きじゃない。

ただ、それでも
ここでいっている「量が大切」というのは
質と上げるために量が大切だとういっているわけであって

質をあげることよりも、量を増やすことが大切、といっているわけではない。

 

一方で、単純に量が大切というのもある。

ブログもYouTubeもコンテンツ数がある程度の量ないとはじまらない面がある。

だからこそ、量が大切なのは間違いない。

 

ただ、だんだんそれが混同してきて
いつしか量を増やすことそのものだけが目的になってくる。
どうやったら量を稼げるだろうか。
量を稼ぎながら質をあげるにはどうしたらいいだろうか、と。

量と質の主従が逆転してくる。

 

YouTubeでもブログでも読書でも
量は目標としては使える。
ただ、目的としえは使えない。

そのYouTubeを通して、そのブログを通して、その読書を通して
何が得たいのか?

そこに量は関係ない。
量を増やすのは最終ゴールにとっては手段だ。

 

最初は量でいい。
ただ、その量を積み重ねる中で見えてきた課題を見逃してまで量を増やしていては本末転倒だ。
改善点を見つけるために量を増やす。

量を増やしたいからといって
質向上にかける時間が減って、低品質のものをいくら生み出しても
それは価値を生み出していることにはならない。

自分が楽しいし、価値を感じてくれている人はいる。だからいい。

それはそれでいいかもしれないが本当にいいのか。
自分でも満足できていないものを生み出し続けていいのか。

生み出したものに反響をちゃんと分析しているのか。
PDCAのサイクルはちゃんと回っているのか。

せめてそれを考える時間を定期的にとる必要はあると思う。
本当に大事なことを見失ってはいけない。

いまブログとYouTubeでそんなことを考えるフェーズ。

向き合いたくないものに向き合う

自分の弱み、弱点
ここと向き合うのは勇気がいる。

でも、日本人はそこに向き合う人が多いから
「弱みばっかりみてなくていいよ」みたいな言葉が横行している。

一方で、自分は弱みを全部無視してきたタイプの人間。

結果として、強みをつくるために改善したほうがいいところまで全部無視してきた。
ちゃんと向き合ってこなかった。

だってそこには時間がかかるから。
時間かけていたら量が増やせないから。
そもそも改善方法がいまいちわからないから。

ちょっと甘えすぎね。

ネットでも、本でも
いろいろ書いてあるでしょ。
ネット上で教えてくれるかもしれない人がいるでしょ。

ちょっと耳が痛いことに、どれだけ真正面から向き合えるか。

あらゆる痛みに真正面から向き合ってたら
傷だらけで死んじゃうかもだけど

何にも向き合わずに居心地のいいところにいるだけでは
新しいものは何も生まれない。

自分の目的のために、自分の強みのために
改善できる部分を改善する工夫は必要でしょう。

得意なことを、何も考えずにやり続けたって成長はうまれない。
できなかったことをできるようにしていくのが成長なのだから。

全部できるようにする必要はないけど
課題意識はないとね!

評価にさらされる覚悟

誰かに価値を提供しようとすると、そこで評価にされされる。

提供相手が多くなればなるほど、多くの人の評価にさらされる。

そうすると責任も増える。

 

最近、ブログも読まれることが増えてきた。
1万もいってないけど、でも多いのは間違いない。
相対的なものではなく、絶対的な数として多い。

いままでは、書いてもそんなに読まれるわけでもないし自分のために書こうか。

そんなかんじだった。
読む人は読むし、読まない人は読まない。
それでもいい。

でも、今は多くの人に見てもらおうとしている。
そのためにSEO対策もして、検索順位も上がってきた。

でも、そうであるならば、それに応じて読まれる責任・発信者としての責任をもたないといけない。

 

本当に稼がなければいけないのは
アクセスではなく
信頼や感謝なのだから。

アクセスを稼ぐのは手段だ。

手段とはいえ、そこを怠るのもよくない。
ちゃんと届けるところまで含めてモノづくりだと西野さんもいっていた。

自信をもって届けられるものを作る。

そして評価にさらされる。
多くの人に見られる責任を引き受ける。

この責任が大きければ大きいほど
稼げるものも大きくなる。

結構怖い。この責任の増大。
でもやるからにはこの責任を引き受けないといけない。

引き受けられないなら、引き受けられるレベルにダウンサイジングするまでだ。

自分がつくったものは見ろ!

ブログも動画も
結構自分がつくったものを見ないできた。
ラジオもそうだ。

ダメ
みろ

向き合え
だめな自分と
何度も何度もみろ

そして次の糧にしろ

自分が読みたいと思えるもの
自分が見たいと思うもの

せめて、そう言うものを作れ!

今日は『読みたいことを、書けばいい。』を再読